言いたい事は数あれど

言いたいことは数あれど友人も知人もいない僕がネットの海に愚痴を投棄するブログ

アゴを伝う一筋の愚痴

”愚痴を言う”という事は良い事なのか悪い事なのか

 

 

愚痴を言いたいだけ言う人も居る。全く関係の無い話をしていても最終的に愚痴になっているような不思議な話術を使う人が周りにいないだろうか?

 

愚痴を全く言わない人も居る。はたから見ていて嫌な思いしただろうなぁ、という時でさえニコニコしちゃえる人、周りにいないだろうか。

 

僕は普段愚痴をあまり言わない人間だと思う。かといって全く言わないわけではなく、その場に合わせた愚痴、いわゆる”社交的な愚痴”を吐くことはある。周りの人間が不満に思っている事に合わせ、本心ではどうでもいいなぁと思いつつもそれに乗り遅れないように同和して愚痴を言う。

 

だから僕の不平不満は漏れない。というより漏らせない。

 

だって漏らす相手が居ないんだもの。

 

そこで僕はTwitterを始めた。Twitterで呟くことで自分に溜まった不満を吐き出していた。フォロワーは一切居らずただ不満をこぼすだけのアカウントが出来上がったのだ。

 

けれどもそこで気づいてしまった。

 

やはり聞く人が居なければ愚痴は愚痴として成立しないのだ

 

最初はTwitterで愚痴を呟いていたもののその数はどんどん減っていき、最終的には全く呟かなくなった。原因はきっと、いちいち不満に思ったことがあればTwitterを開いて文字を打って投稿するということをしなくても、トイレで糞垂れながら口で呟けばいいのだと気づいたという部分もあったが、その多くは何も反応が無い事だったように思う。

 

結局今は偶に愚痴を呟くぐらいで対して当たり障りのないアカウントになってしまった。もちろん僕の呟きを見てくれて、反応をくれる人にはありがとうという感謝とお暇なんですねという嘲笑を送らせていただきたい。

 

でも僕の不満は溜まるばかり。もはや100数文字では収まりきらない。

だから僕はブログで文字にしようと思う。そして書いたという事実をTwitterに乗せて発信したい。

 

僕は自分の発言を誰かに見てもらいたい。多くの人に見てほしいわけでは無い。ネットの海を漂っているうちにその海で泳いでいる魚に横目で見てもらえる、ただそれだけでいいのかもしれない。

そしてそれはおそらく何かを発信している人は全てそう感じている事だろう。誰にも届かなくていいと思って発せられるものなんて無いのかもしれない。

 

誰も見てないだろうから、誰も興味無いだろから、誰にも届かないだろうから。

その言葉はきっと

誰か見てるだろう、誰か興味を示すだろう、誰かには届くだろう。

そういった寂しい期待が込められているんだと思う。

 

だから僕の不平不満は誰も見てないだろうし、誰も興味ないだろうし、誰にも届かないだろうからここで吐き出そうと思います。